宝石商リチャード氏SS再録1
クレオパトラの真珠
昨日は久しぶりに、テレビ局の夜勤バイトだった。宝石店『エトランジェ』での土日のアルバイトの邪魔にならない範囲で、まだ少しだけ続けている。夜勤室にある消音状態のテレビからは、バイト先の局のチャンネルしか流れない。俺が入った六時には、歴史系のクイズ番組が流れていた。
特に興味のあるジャンルではなかったのだけれど。 「あのさリチャード、真珠って本当に、酢に溶けるのか?」 「クレオパトラの逸話ですか」 「うお、さすが宝石商」 「一般常識です」 紀元前のエジプトの女王だったクレオパトラは、ローマの将軍アントニウスと『どっちが豪華な食べ物を準備できるか』バトルをしたという。アントニウスは正攻法で世界の珍味をずらりと並べて見せたが、女王は変則技を使った。耳飾りにしていた大粒の真珠を、カップに注いだ酢で溶かし、アントニウスの前で飲みほしたのだ。 あっけにとられるアントニウスに、足りないのならもう片方もと微笑んだ時、勝負は既に決していたという。 俺がにわか仕込みの逸話を語ると、リチャードは涼しい顔で頷いた。 「プリニウスの記録ですね。『博物誌』という本を探せば載っていますよ」 「じゃあ本当なのか! いや、無理だろ……? さすがに酢で真珠は溶けないだろ」 「濃度によります。飲んだが最後体に変調をきたすほど強い酸であれば、たしかに真珠も溶けるでしょう。もっともそんなものをエジプトの女王が飲んだとは思えませんが」 「だよな……」 「古代ローマの文献に歴史的な正確さを求めるのは無理があると思いますが、少なくとも彼が語ろうとしたロマンは伝わってきます。クレオパトラの大粒の真珠の値打ちは、計り知れないものでしょう」 エトランジェで真珠を扱うところはあまり見た事がないけれど、いつものごとくお客さまからリクエストがあれば、この魔法使いのような宝石商は必要な品をずらりと仕入れてくるだろう。一粒幾らくらいなんだ? という俺の質問に、リチャードはピンキリですと答えた。俺が大粒のまるを指で作り、このくらいなら? と尋ねると、美貌の男はため息をついた。 「王侯貴族が身に着けるような宝石は、特品中の特品です。そういうものには、この世に比肩しうるものが二つとありません。ゆえに『これなら幾ら』という相場は、ほとんど意味を持ちませんよ」 「……いくら大金を積んでも、ないものは手に入らないってことか」 「その通り」 アントニウスのごちそうは食べ物だ。安くはないだろうが金で何とか工面できるだろう。対して、二つはないものをあっけなく溶かして飲む。なるほど。 「それでクレオパトラの勝ちなんだな。本当のことじゃなかったにしろ、知恵ではクレオパトラが一枚上手だったって話か」 「そういうことです。真贋はともかく、逸話の性質から、おおよそのところを類推することは可能です」 「結局クレオパトラ、負けちゃうけどな」 アントニウスとクレオパトラは手を結ぶが、結局ローマからやってきた別の将軍に負けて、二人とも死ぬ。新しい将軍はクレオパトラの美貌にも興味を持たなかったらしい。美しければ何でもうまくいくというものではないのだ。俺の休憩時間はそこで終わって、エンドテロップの前に、スタジオ管理用のカウンターに出る守衛の仕事に入った。
この店で働きはじめるまでは週四で通っていた夜勤だけれど、今考えればよく体がもったものだ。仮眠室で八時まで寝て目が覚めた時、いつもの三倍は肌がボコボコしていた。俺はお世辞にもリチャードのような絶世の美男というタイプではないけれど、見えないものが少しずつすり減ってゆくのを実感するような体験だった。 そういえば。 「どうかしましたか、正義」 「……いや……ちょっと、美人と宝石の関係を考えてた」 宝石は人間より永く、残る。
石は人の命に寄り添ってくれるのだと、リチャードは以前言った。 「宝石って、石だからさ、ちょっとやそっとじゃ傷まないし、ほぼ永遠に美しいだろ? 権力者が集めたくなる理由って、別に財産管理だけじゃないのかもな」 人間誰しも年をとる。栄耀栄華は風の前の塵に同じと昔の人も言っていた。でも何かの例外で、自分だけは年を取らないんじゃないか、ずっとうまくいくんじゃないかと、思いたくなる気持ちも分かる。 だって石は石のまま、美しい姿を保っているのだから。 リチャードはふんと短く息をついて、ロイヤルミルクティーを一口飲んだ。今日の一杯は自信作だ。 「正義、あなたは真珠がどのようにつくられるか知っていますか」 「え? 真珠貝からだろ?」 「その通りです。地中で育まれる鉱物とは育まれ方からして異なるため『生体鉱物』と呼ばれます。柔らかい物体ですので汚れや傷みには弱く、普段使いにも細やかな手入れが必要です。繊細な自然物であるからこそ、古くから美しい女性のシンボルとして愛されてきたのでしょう。貝が長く母体で慈しみ、生み出すことから、出産のお守りとしてもポピュラーです」 「生体鉱物……結石みたいなもんだな?」 「情緒のないことを。生身の人間に近いデリケートな宝石とも言えます。うまく共生できれば、持ち主にたおやかな美を保証してくれますよ」 貝から生まれる繊細な宝石。だからこその共生。さすがは宝石商。うまいことを言う。
クレオパトラもこんな風に、敵の将軍を言いくるめようとしてみたのだろうか。多分したのだろう。でも駄目な時は駄目なのだ。 「……とっておいた方の真珠をさ、攻めてきたローマの将軍にあげて『これで勘弁して』っていうのは、ダメだったのかなあ。ダメだろうなあ……」 「こだわりますね。クレオパトラがローマのオクタヴィアヌスに勝利していたら、歴史は変わっていたかもしれませんよ」 「それは結果論だろ。美人だって世界の財産なわけだし……あっ今のは! 別にお前のことをどうこうってわけじゃなくてだな!」 「分かった、分かりましたから」 大声でがなりたてないように、とリチャードは渋い顔をした。すみません。今まで何度か俺は、この美貌の店長の容姿を褒めて、褒めて、褒めすぎてしまい、胡乱な顔をされたことがある。面目次第もない。 「……今も昔も、生存戦略って難しいんだな」 「宝石は喋りませんし、恨みません。放っておいても殖えません。権力者がうつろうにつれ、所有者が変わる石も多々存在します。石の美しさは徹頭徹尾受け身の美です。解釈『される』ことはあっても、石が人を解釈することはありえません。だからこそ敵対者のものであっても、てらいなく受け入れられるのでしょう。生身の人間ならばこうはゆかないものです」 「そういえばクレオパトラ、最期は自害ってテレビで言ってたっけ」 本当に絶世の美女だったなら、戦に負けても命は助けてもらえたかもしれない。でも俺はそこに、一つの国を背負って戦った女王の矜持のようなものを感じる。
私は宝石とは違う――と。 実際どういう経緯があったのか、分かったものではないけれど。 「宝石も大変だな。きれいだきれいだって大事にされても、自分で自分の運命は選べないわけだし」 「宝石に我が身の悲哀をかこつ意志があると? 意外です。スピリチュアルな方面にも造詣が深いとは」 「いや何もそうは言わないけど……」 本当にそうでしょうか、というリチャードの声に、俺は眉根を寄せた。え? 「石も人を選ぶものですよ」 「……マジで言ってる?」 「マジです。巡りあわせのようなものです。人が人を選ぶように、石も人を選びます。縁があってこそ、その人のもとに収まっていると、私は思っていますよ」 「……お前が『マジ』って言うと、なんか……いいな」
「は?」
「ギャップがすごいって言うか、クレオパトラがビールをジョッキで飲んでる感じっていうか……あ……何か、ごめん」 リチャードは不機嫌に咳払いをして、いつもの声で「お茶」とのたまった。ちょっと照れている時、こいつは俺を小さなキッチンに追い払う。
その日のエトランジェ従業員のおやつは、上方からお越しのお客さまからいただいたラムネだった。パステルカラーの、小さなまあるい粒が、百貨店の帽子箱のようなきれいな箱にぎっしり詰まっている。口にいれるとしゅわっと溶けてしまう。おいしいしきれいだけど、さすがにこれをお客さまにぼこぼこ食べていただきながら宝石の話をするのはちょっと障りがありそうだし、笑ってしまいそうなので、内々で片付けることにした。 「賭けてもいいけど、真珠の溶けた酢より、絶対こっちの方がうまいよな」 「何を賭ける気ですか、くだらない」
古代ローマの将軍も、エジプトの女王も絶対口にしなかったであろう菓子を、俺とリチャードは無心で食べた。食べても食べてもなくならなかった。そのうち真珠の大食いをしているような気分になってきて、俺は少しだけクレオパトラに申し訳ない気分になった。
俺が少し、顔をしかめると、絶世の美男は俺の目の前で、美しい眉をほんの少しだけ怪訝そうに持ち上げてから、またラムネをぱくつきはじめた。
<初出 2015年「宝石商リチャード氏の謎鑑定」書店用特典ペーパー
2017年 web再録にあたり改稿>