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宝石商リチャード氏webSS

お祝いに寄す

 特別な記念日のプレゼントとしてジュエリーを贈る方は、案外多い。

 まだ数週間のアルバイト経験ではあるが、ジュエリーを渡しながらプロポーズという案件にも、既に一件、遭遇している。店主曰く、それほど珍しいことでもないらしい。店員が少なく、ひとめを気にする必要のない店の雰囲気も手伝っているのだろう。もしかしたらジュエリーを受け取って、店外でプロポーズという流れになったお客さまもいるのかもしれない。店員の俺が目にしているお祝いなんてほんの一部であるはずだ。プロポーズだけではなく、付き合い始めて五周年のお祝い、初デート記念、結婚十周年など、お祝いの理由はさまざまだった。

 でも一番目立つのは、やはり誕生日だ。祝いやすい記念日という感じがする。

 しかし。

「なあリチャード、かなりひねくれたことを言ってる気はするんだけどさ」

「ええ」

「……どうして誕生日って、お祝いをするんだろうな」

 などと言ってはみたものの。

 そんなことは、まあ、考えるまでもなく。

 誕生日がないというのは、そもそも誕生していないということだ。

 自分自身の存在がなければ、嬉しいも楽しいもなく、祝うことすらできないのだから、そりゃあもう祝うべきことだろうと、頭では理解できるのだが。

 そんなにめでたいだろうかというのが、俺個人の正直な感想である。憲法記念日とか敬老の日とか文化の日であったら、こういう理由でめでたいので祝いましょうねという気持ちをまわりの人と共有できるのでわかりやすいが、誕生日というのは、ものすごくパーソナルなお祝いで、かつめでたい理由が他人と共有しにくい。

 だからこう、何となく、一抹の気まずさを感じる日ではないかと、俺は思う。あくまで個人的な意見だ。お客さまがお帰りになり、次のお客さまがやってくるまでにはまだ間があるという店の雰囲気が、俺にいらないことを喋らせたらしい。

 美貌の宝石商のお返事は、含み笑いだった。目があまり笑っていないが、ふっふっふという、狐がふさふさの尾をゆらすような音が漏れている。

「祝うべき理由が共有しにくい、ですか」

「ああ、いや何でもない。や、何でもないってわけじゃないけど、あんまり気にしないでくれよ。こういうのはきっと後付けの理屈だな。そんなこといちいち頭で考えてるわけじゃないと思うよ。ただ」

 俺にとっては、何となく祝いにくい日である。

 そもそも俺の家は、母のひろみが再婚するまでは、シングルマザーの腕一本で支えられていた家だ。忙しいという言葉で彼女の生活を描写するのは、ひろみにも『忙しい』という言葉に申し訳ない気がする。

 連戦を続ける武者のような看護師生活の中でも、彼女は俺の誕生日には、それはもう鬼気迫る勢いで休みをもぎとって、高価ではないもののうまい手料理や甘いものを食べさせてくれたのだが、正直そこまでして祝ってくれなくていいという気持ちでいっぱいだった。国民の祝日と違って休みがとりやすいわけでもない。一日休むとその前後にしわ寄せがゆくことは、子どもにだってわかるものだ。本当にそういうのいいからという気持ちであったが、ありがたいことにひろみも頑固な人なので、中学校三年までは問答無用で俺の誕生日を祝ってくれた。高校からはどこか、気が抜けたような雰囲気もあり、俺もあまり気にしなくなったが。きっと俺の背丈が彼女の背丈を追い抜いてしまったせいもあるのだろう。

 奇妙なものだ。銀座にいるのに、小さな子どもの頃のことなんか思い出している。

 ただ、の後に続ける言葉を探したものの、適切に言いつくろうことができず、俺はあいまいな笑みをうかべて、下手な愛想笑いを浮かべて見せた。

「ただ……何でだろうな? 考えるとわからなくなるよ」

 はは、と俺が笑うと、赤いソファに腰かけた宝石商は、あまり口を動かさず、喋った。

「お茶」

 ははあー。店主とバイトの会話である。仰せの通りに。こういう時に話題を切り替えてもらえるのは本当にありがたい。二つ、という追加オーダーが入ったので、二人分お茶を準備して、お盆に載せ、エトランジェのガラスのローテーブルの上に置く。

 まだ温かいロイヤルミルクティーで一服してから、スーツの男はさて、と前置きした。これは何かが始まる気配だ。

「正義、人はなぜ、特別な日を祝いたいと思うのでしょうか」

「え?」

 思っていたよりも、あっけらかんとした話だった。

 それは、質問文に答えが入っているじゃないかという指摘で、決着をつけてしまってよいのだろうか。

「それは、『特別な日だから』じゃないのかな」

「素晴らしい。今日のあなたは冴えていますね」

「いやあ、それほどでも! って言えばいいのかな、それともツッコミ待ちか?」

「お好きなように。あなたの呼吸が少しずつわかってきたように思います」

 これもまたありたがいお言葉である。もともと俺は、テレビ局の夜勤で雑魚寝をするアルバイトなんかしていた人間である。控え目に言ってむさくるしかった。宝石店の呼吸を学びたいとは思っているものの、そうそう切り替えられているとも思わない。それでもまあいい、こっちで何とかするからと、小さく言ってもらえた気がする。まあ俺も頑張らなければならないのだが。

 どうもと目礼をしてお茶を一口飲むと、リチャードはまた、微笑を浮かべた。目が優しい。この青い瞳が俺は好きだ。海の色と空の色の間くらいの淡い色合いで、あんまり見つめていると、ふっと魂が抜けてゆきそうな気がする。美しすぎるせいだろう。

「そもそも、順序が逆です」

「逆」

「祝いたいから、特別な日なのです」

「おお」

 わかったようなわからないような言葉である。つまり? と首をかしげて補足を待つと、リチャードはまた微かに笑った。

「たとえばあなたに、『この人と出会えてよかった』『できることならば長く関係を維持してゆきたい』と思うような相手ができたとして」

「うん」

「嬉しいですね」

「嬉しいだろうなあ」

「自分が大変な光栄に浴していることを確認するために、多少なりとも懐を痛めて、何かを購入したり、あるいは滅多に食べられないものを食べたりしたくなるかもしれません。そして、そういった一連の行動に、できることなら名前をつけて、カレンダーに書き込んでおけるような形にしたくなるかもしれません」

「そうか、そういう行動が『お祝い』になるってことだな」

「その通り。そして誕生日は、とても祝い勝手のよい祭日です。何しろその人間を大切におもっている相手にしてみれば『あなたが生まれてきてくれてとても嬉しい』『ありがとう』という気持ちをストレートに伝えられる日になるのですから」

「そ、そんなこと言われたら照れるだろうな!」

「確かに、日常生活の中であれば、どこかにいらっしゃる褒め殺しの達人でもない限り、赤面することもあるやもしれません。しかしそれが誕生日でしたら『そういう日ですから』で済むかもしれません。凡人には得難い機会かと」

「ほめごろしの達人?」

 何でもありません、とリチャードは頷いた。心なし仏頂面であるが、それでもやはりきれいな顔立ちである。ため息が出そうだ。

 しかし、祝いたいからこその祝日、覚えておきたいからこそのお祝い、という発想はなかった。確かに順序が逆かもしれない。

 嬉しくて嬉しくて仕方がなかったら、たとえ記念の品や食事に割く予算がなくても、スキップしてジャンプくらいはしたくなるかもしれない。それもまた『お祝い』の一種だろう。

 何だかそんなことをもちゃもちゃと呟くと、金髪碧眼の宝石商は、どこか学校の先生のような笑みを浮かべた。

「エクセレント。論理的な類推能力に光るものを感じます」

「そんなこと褒められるの初めてだよ。おそれいりまっす!」

「おそれいります、と発音なさい。より丁寧に聞こえますし、照れ隠しをしていることもばれません」

「うわっ、そこまで言うか。図星だけどさ。はい、気を付けます」

「よろしい。あなたのそういう真っすぐさを、私はとても買っていますよ」

 リチャードの微笑みには不思議な力がある。いつまでも見つめていたいような美しさをまとっているのに、その裏側に、何か俺には見えていない感情がもう一層、あるような気がしてしまうのだ。これがいわゆる『謎めいている』ということなのだろうか? わからない。ただレースのカーテンの向こうに、知っているような知らないような人影が見え隠れするようで、少しどきどきする。いずれにせよ美しい影なのだろうとは思うけれど。

 失礼にならない程度最大限見つめてから、ありがとうございますと俺が頭を下げると、宝石商はもう一口、俺のいれたロイヤルミルクティーを飲んでくれた。最近はもう、味に迷うこともなくなった。

 青い瞳の中に、微かに愁いのような影がよぎる。

 リチャード? と名前を呼ぼうかどうか迷った。だが俺が口を開く前に、宝石商は口を開いた。

「それに、祝える時に祝っておくというのも、生活の知恵です。『この人と会えてよかった』『関係を維持していたい』と思う相手ができたとしても、必ずしもそれが叶うとは限らないのですから」

 ほんの一瞬、眼差しがブレて、俺を見ているようでどこか遠くを見ているような、何とも言い難い光を放ったが、これは見なかったことにしよう。

 それはいわゆる、日本人のお得意の、無常観というやつで、中学で暗記させられる『風の前の塵のごとし』というやつだなと、俺が腕組みして告げると、宝石商のリチャード氏は、美しい白い頬をくっと持ち上げ、にっこりスマイルしてみせた。美しいが怖い。何だろう。

「風の前の塵に同じ」

「えっ」

「塵のごとし、ではありません。平家物語は盲目の演者によって朗読される音としての側面を持った文学では? せっかく豊かな文化をたくわえた国に生まれたのです、正確に覚えなさい」

「……けっこう細かいな?」

「宝石商ですので。一カラットは重さにすれば〇・二グラムですが、宝石の世界では命をわける違いです」

「物騒なたとえだなあ。お前やっぱり、隠れ日本人だよな? 義務教育六年間受けてるんじゃないのか。現代文と古典が大好きで、図書館の資料を読み漁ってたタイプじゃないのか?」

「日本の古典の一部に通底しているからといって、日本の教育を受けたと考えるのは、些か短絡的に過ぎる上に、文化の相互理解に対する侮辱では? あなたももう少し、文化に対する間口を広げてみては? お望みであれば多少のお手伝いは厭いませんよ」

「……じゃあ、学期末のレポートなんかで、困った時に少し」

「ナンセンス。古典を読む楽しみは、学習機関で一定の評価を得るためだけではないでしょう。視野を広く、高く持つべきですよ、中田正義さん」

「おそれいります、リチャードさん」

「おや、先ほどより知的な発音になりました。グッフォーユー」

 ありがとうございますとお辞儀をし、そろそろおかわりを持ってくるか、茶器を下げようかと、俺は腰を浮かせた。下げてくれというハンドサインに頷き、俺が台所スペースに引っ込もうとすると、リチャードは去り際に声をかけてきた。何だろう。お茶菓子だろうか。

「ところで、今日は土曜日ですが、勤務の後はお暇ですか? それとも何かご予定が?」

「え? 予定はないけど、研修とか掃除とか?」

 何かあるのだろうか、何時間くらいだろう、残業手当はつくのだろうか、その場合いくらくらい貰えるのかと、俺の頭はさっそくみみっちいことを考え始めたが、美貌の店主の提案は斜め上だった。

「では、食事をしませんか」

「……今日、終業後にってことか」

「ええ。あくまでお暇でしたら。すぐそこに資生堂パーラーという建物があります。三階がカフェ、四階がレストラン」

 すごく高級なところだよな、と俺が確認すると、リチャードはちょっと複雑そうな顔をして、それはあなたのイメージする高級の定義によると言ってくれた。ありがたいお言葉であるが、高田馬場を拠点とする男子大学生としては、ボローニャ風ドリアより高価な食べ物は一律『高級』である。間違いなくドンピシャで高級な店だろう。

 割り勘をせがまれるとは思わないが、不安はよぎる。大丈夫なんだろうか。この人の羽振りがいいのはわかっているが、何の裏もないと十割断言できるほど、手の内を知り尽くしているわけでもない。

 どうぞお気遣いなく、俺はめちゃめちゃよく食べるので、そういう高級なところよりファミレスの方が合ってる気がするし、と謙遜すると、リチャード氏はフムと鼻を鳴らした。何だその声は。コスプレ史劇ドラマに出てくる、ちょっと意地悪な執事さんのような声色だった。

「ナイフとフォークの使い方は?」

「……右がナイフ、左がフォーク」

「握り方は」

「そこまで決まってるのか」

 俺の返事は何でもない確認のつもりだったのだが、リチャード氏はその返事を聴くと、何故か懐から携帯端末をとりだし、どこかに電話をかけはじめた。流暢な日本語で、ディナーの予約を取り始める。二名。

 回線が途切れた後、青い瞳はきろりと俺を見た。

「ナイフとフォークをいかに握るべきか、あるいはいかに握るべきではないか、よい機会です。確認しに行きましょう」

「……蹴り出されなかったら御中ってレベルの手際だと思うぞ。本当にいいのか」

「あなたは私をしつけの教師か何かと勘違いしている。それほど格式の高い場所とは思いません。ただあの場所での食事が、私は気に入っておりますし、あなたの口にも合うと思ったからこそ、こうして誘っているだけです」

 加えて誰しも、みんな同じように、最初は初心者だと。

 わからないことをわからないと言われただけで腹を立てるような人間だと思われているなら心外なので、そうではないことを証明しましょう、とも。

 何でもないことのように、美貌の男は付け加えた。

 ことさら優しい顔をしなかったのは、多分俺のプライドを尊重してくれたのだと思う。お客さまを相手にしている姿を横から眺めているとよりわかりやすいのだが、こいつのこういう顔の使い分けの器用さには、舌を巻くばかりである。しかしそういう商売道具のようなものを、バイトにまで使ってくださらなくても構わないのだが。

「わかった。ごちそうになります。テーブルマナーの他にも、わからないこといっぱいありそうだけど、そのたび指さして笑ってくれていいからな」

「初心者を笑うことができるのは愚か者だけです。自分が生まれた時から大人であると錯覚しているような大人になることだけは、どうにか避けたいものですね。あなたもこれから、いろいろなお祝いの席に招かれることもあるでしょう。何かの助けと思いなさい」

「本当に気を使ってくれなくていいからな……!」

 そんなわけで、俺は銀座七丁目に毅然としてそびえたつ赤い資生堂ビルのエレベーターにのりこみ――おやつのおつかいで訪れるのは一階のみである――鏡張りのエレベーターに挙動不審になりながらもレストランフロアへあがり、お待ちしておりましたと給仕さんに迎えられた。おそれいりますの発音の勉強会のようになった。

 ナイフ、フォーク、白いナプキン、テーブルクロス、金の椿の模様が入ったお皿。きびきび動くフロアスタッフ。明るいオレンジ色の照明。

 いいところだ。

 人が誰かを大事に思う気持ちや、何かを大切に――たとえば宝石のように――とっておきたい、祝いたいという気持ちをインテリアにしたら、こんな風になるのかもしれない。

 俺は少しだけ声を潜めて、向かいの椅子に掛けた男に囁いた。

「これもこれでお祝い、なのかな」

「あなたがそう思うのならば、そうでしょう。気持ちの問題です」

 そういえばさっきそんな話をしていた。

 今の俺はうきうきしている。楽しい気分だ。今日のことは忘れないと思う。目の前にいるのは俺に親切なバイト先の上司で、これから食べるごはんは間違いなくうまい。それは確かだ。

 確かにこれはお祝いだろう。でも。

「何を祝ってるんだろうな?」

「そうですね、あなたと初めてここに来た記念、というのはいかがです?」

「そのまんまだなあ」

「ナイフとフォークの使い方を学ぶ記念、よりはましでしょう」

「ありがたいけどさ、『初めて来た』がお祝いになるのって、これからも二人で頻繁に来る場合限定だよな」

 それは確かにと、美貌の宝石商は愛想のない顔で頷いた。

 その時俺は、この男は本当に優しいやつなんだなと思った。

 宝石店エトランジェのアルバイトは、言ってはなんだが、かなり割がいい。お茶くみと掃除とその他もろもろのおつかいで、もらっていい金額なのかと、時々罪悪感が湧くほどにありがたい。

 できることなら、続けたいバイトではある。

 安全だし、きつくもないし、接客にはまだまだ磨きをかけなければならないだろうけれど、リチャードと話すのは楽しい。そして俺は宝石が好きだ。決して容量のよくない俺が、学業を尊重するためにも、ありがたすぎるバイトである。でもそれは俺の都合だ。

 もっといい人材が見つかったから明日から来なくていいと言われたら、まあそれまでだろう。

 そこまで露骨な切り方をする男とは思っていないが、人にはいろいろな都合ができるものだ。今はなくても、今後できるかもしれない。

 そういう可能性を、無責任に「そんなことはない」などと言い切らず、ぬか喜びさせない優しさは、人間のもちうる優しさの中でも、かなり最上級に誠実なものだと思う。

 ありがとうございますと、今回の食事に対して感謝している風に見せかけて、俺はリチャードに頭を下げた。ありがとうございます。こいつとお客さまのやりとりや、俺にかけてくれる言葉を見るにつけ、もっといい人間になりたいと思う。投げっぱなしの願いのようなものだが、リチャードという男は現実の存在として俺の目の前にいる。現実味のない美貌の持ち主ではあるが、優しさだったら、俺にも真似できるかもしれない。

 難しいことだろうと、わかってはいるのだが。

 でも、できるかもしれないと思わせてくれることが、しみじみと嬉しい。

 これもまた、全ては気持ちの問題だ。

「さて、オーダーは決まりましたか」

「決ま……いや、決ま……ううん、決まりそうなんだけどな、迷うぞこれ。なあ、おすすめは?」

「ストロベリーパフェ」

「ん? それは最初に頼むものじゃないよな」

「何でもありません。間違えました。気にしないように。どれも美味ですよ」

 迷いに迷って俺はカレーを注文し、何故かリチャードに笑われ、まあいいでしょうと言われ何かを許された。意味が理解できたのは、カレーが運ばれてきた時だった。

 スプーン一本で用が済んでしまう。

 ああっ。

 これは、渾身のボケではなく、本当にカレーが食べたかったからで、そんなにナイフとフォークが使いたくなかったわけじゃないんだと、俺はひそひそ声で訴えかけたのだが、そのたびリチャードが口元を微妙に振るわせて「わかっています」と言うので、それ以降は無言で食べることにした。

 ナイフとフォークの記念日は、またの機会にしようとリチャードは言ってくれた。つまりまた一緒に食べにこようということだ。本当にうまい食事だったし、雰囲気も最高だったし、何より俺があわあわしていても店の人も周りの客さんも誰もそれを気にしないでくれたところが最高だったので、本当にまた行けたらいいなあと俺は無責任に言ってしまった。

 そして果たせるかな、その翌週の土曜日の夕食も、俺は真っ赤なビルディングの四階で食べることになったのだった。

 勤続が一年を超えた今でも、俺はしょっちゅうリチャードと一緒に赤い建物を訪れているが、大体俺がオーダーするのはカレーとオムライスで、どちらもスプーン一本で用が足りてしまうため、『ナイフとフォークの握り方を仕込まれた記念日』は、今のところまだ、来ていない。いつかそういう日が本当に来るだろうか? わからない。毒舌でずばずば言われるだけかもしれないので、もしそんなことがあったら、相当心を強く保っていなければ乗り切れないだろう。

 でも少しだけ、本当に少しだけではあるのだが。

 そういう日が来たらいいなと、どこかで楽しみにしている。

(2018/5/14 web書き下ろし)

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