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ムーンケーキの季節

「中秋なのにこの眺め、新鮮ですね!」

 あははは、と笑いながら、快活な女性のお客さまはエトランジェを後にした。広東語、つまり香港の言葉と日本語が一対一くらいの割合で入り混じる会話は、俺にはよくわからず、ほぼリチャードが一対一で接客にむかっていたが、時々俺の方を見てニコッと笑ってくださる、歯切れのよいお客さまだった。ハスキーボイスで、ワンレングスのアッシュブラウンの髪はつやつや、体はモデルさんのようにすらりと細長い。

 彼女が見ていたのは、ムーンストーンのジュエリーだった。

 ルース、つまりまだ身に着けられる形にはなっていない裸石を扱うことが比較的多いエトランジェには珍しく、リングやブローチ、ネックレスの形になった作品を、彼女は一つ一つ吟味して、最終的にブローチをお買い上げになっていった。あらかじめ彼女が、そういうものを見たいと、リチャードにオーダーしていたらしい。

 青い燐光を放つ、ミルキーな味わいの石は、『女性的な魅力』なる石言葉をもつジュエリーにはぴったりのたおやかさで、彼女は持参していたブランドのスカーフを、新品のブローチでとめて、颯爽と店を出て行った。

「ふう」

 俺は短くため息をつく。休憩時間だ。俺は彼女が差し入れてくださったおみやげの箱を店主に示し、これを食べるかと尋ねる。包み紙に書かれている名称からしてお菓子だろう。エトランジェ名物の菓子棚には、例によって秋季限定の甘味がひしめいているが、いただきものには特別な魅力がある。

 男らしいとも女らしいとも言い難い、しかし圧倒的な輝きを放つ、美貌の中立地帯のような男は、俺のことを上目遣いに見ると、ふっと笑った。

「あなたにはこれが、何だかわかりますか?」

「え? お菓子だろう。それとも何か、特別な意味があるのか」

「それはそうですが」

 ムーンケーキ、と。

 リチャードは口に出した。俺は困惑する。

 だって包み紙には『月餅』と書かれているのだ。

 読み方は『げっぺい』で合っていると思う。昔住んでいた家の、近所の和菓子屋さんは子どもに優しい仕様の値札で、全ての品物にふりがなが振られていた。みたらしだんご。みずようかん。おはぎ。そしてげっぺい。

「……ああ、そっか。英語圏ではそういう風に呼ぶんだな。ムーン・モチじゃないんだ」

「日本語の『餅』の英訳は『ライスケーキ』だったかと。それはさておき、香港における『餅』は、もう少し意義のレンジが広い言葉になります。焼き菓子一般を『餅』と呼ぶこともありますし、『ベーカリー』は『餅家』ですよ」

「はあーっ!」

 ムーン・モチって一体、そういえばモチは日本語だったな、などのセルフツッコミが頭の中を乱舞したのは一瞬だった。そういえばリチャードは銀座に来る前は、香港で仕事をしていたという。当時のことを俺は全然知らないが、大陸からお越しのお客さまとも、彼らとは微妙に違う言葉をお話になる今日のようなお客さまとも、この男は流ちょうに喋る。そもそも日本のことにだってこれだけ詳しいのだ、むこうの文化にだって親しんでいないはずがない。

 リチャードは月餅、あるいはムーンケーキと書かれたボックスの包み紙をするすると破き、中に入っていた缶の蓋をそっとあけた。俺は目を見開く。

 鮮やかなピンクや緑、クリーム色や白色の月餅が六つ。

 マカロンみたいな色合いである。俺が見たことのある月餅とは、きつねいろの和風パイで覆われた、白あんっぽいスイーツの詰まった甘いお菓子だった。表面に中華風の焼き印が押してあるところは共通だが、こちらの印はいやに立体的で、まるで現代アートの迷路か何かのようだ。伝統的なお菓子という雰囲気ではない。スタイリッシュな都会の人が喜んで食べそうな、俺が知っている月餅とは似て非なる何かだ。

「いかがです」

「凝ってるなあ。カラフルだし、食べ応えもありそうだし……日本では、あんまり見かけないな?」

「香港で買ってきてくださったのでしょう。一年を半分ずつ、香港と日本で過ごしていらっしゃるような方ですからね。中秋の名月を祝う習慣は日本でも根付いているようですが、本家本元の祝い方はなかなか凄まじいものですよ……そうですね、個人的な感覚になりますが、見かけ上、一番似ているのは」

 美貌の男は言いよどむ。何を想像しているのだろう。

「……バレンタインかと」

「バレンタイン?」

「日本でいうところの、です」

 日本のバレンタイン。つまりデパ地下チョコレート戦争だ。あっちもこっちもチョコレート販売に熱心で、ここぞとばかりにチョコの広告が舞う。そういう認識で合っているかと俺が確かめると、はいとリチャードは頷いた。なんてこった。

「月餅戦争の時期ってことか……」

「その通り」

 その通りと言われても、なかなか想像ができない。とりあえずお茶をいれてくるなと、俺が一旦エトランジェの厨房に引っ込み、作り置きのロイヤルミルクティーをあたためてきた頃には、リチャード氏は携帯端末を構えて待っていた。

 表示されている画像は、いずれも『月餅』のようだ。

 たとえば中にバニラのクリームと栗が入っている月餅。

 あるいは表面にアニメのキャラクターの顔をつけた月餅。

 有名な高級アイスブランドが出している、ポップアートのような絵が描かれた、チョコレートアイスの月餅。もはや月餅の定義とは一体という感である。とりあえず中身のクリームを、何らかの皮が包んでいればOKなのかもしれない。まとめ買いで安くなります、と書かれていると思しき商品説明欄が少し気になる。俺が眉根を寄せていると、美貌の宝石商は肩をすくめた。

「月餅は、お世話になっている方々に配るための品でもあります。バレンタインのチョコのように、日々の感謝を伝えてくれるアイテムとして活用されていますからね。家族はもちろん、友人、取引先などに、何箱も買って贈り合う風景を、この時期にはよく見たものです。古い文化に基づく習慣ですので、このあたりはバレンタインというよりも、お正月や子どもの日の感覚に近いかもしれません」

「お前もそういうのに参加してたんだな」

「無論です」

 そして俺は思い出した。さっきのお客さまの去り際の一言。中秋なのにこの眺め。新鮮。『眺め』とは何だ。誰にでも月餅を贈るのが当たり前のシーズンに、甘味の大好きな店主のいる宝石店。

 ひょっとして。

「…………香港エトランジェは、この時期、月餅の城みたいになってたりしてな?」

 あてずっぽうの一言だったが、リチャードは若干、沈痛な面持ちをして、視線を伏せた。ああ。ビンゴらしい。

 洒落にならない物量戦だったのだろうか。今俺が目の当たりにしているカラフル月餅にしても結構なボリュームである。真空パックの個別包装だし、生ケーキほど足が速いようには見えないが、これを何箱もいただくとしたら、一体どうやって消費すればいいのか。

 月餅シーズンなどというからには、もらっていない人におすそ分けというのも難しそうである。何しろそこら中の人が交換会をしているのだ。それこそ女子高校生のバレンタインデーのようだ。

「…………頑張りました」

「お、おう」

 俺には『月餅を消費するのを頑張りました』とは聞こえなかった。むしろ『食べた後の体形維持を頑張りました』だろう。この男は白鳥のバタ脚を俺に見せようとはしない。しかし食べまくっても大丈夫なように、運動はしているし計算もしていると、随分前に教えてくれたのをよく覚えている。そうでなければ毎週末、こんなに情け容赦なく甘味を出せるはずがない。いまのところ駄菓子屋やコンビニスイーツの類を食べているところは見たことがないが、この甘味大王は出されたものならばきちんと平らげるのだ。それはもう幸せそうに。礼儀正しいこの男はおおっぴらに感情をあらわにするタイプではないので、微妙な表情の変化とはいえ、真珠のまろやかな輝きにも似て、観察を重ねてくると十段階評価でいうと八くらいだな、いや七くらいか、などと勝手な評価を許すようになってくれる。ともかく嬉しそうな顔をする。俺はそれを見るのが好きだ。だからいつまでも食べていてほしくなってしまう。

 健康管理上の観点から考えれば、危険極まりない話だ。

 まあ、本人が頑張っているというのだし、今のところは、いいか。

「いつまで立っているのです。あなたも座って食べなさい」

「へいへーい。じゃ、ご相伴に預かります」

 リチャードのためにティーカップを置き、いそいそと自分のものを用意して戻ってくると、美貌の男は居住まいを正していた。

 俺が対面の席に座ると、頭を下げる。何だろう。いや、そうか。月餅は日々の感謝を伝えるためのツールだという。そういうことか。

「いつもお世話になっております」

「いえいえ、俺のほうこそ。お世話になりまくっております」

「そこは敬語で返すのが順当かと」

「た、大変申し訳ございませんでした。日々お世話になっております」

「今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします……オッケー?」

「まったく、しまりませんね」

 顔を上げ、少し困ったような顔で笑った男は、オーケイと本場の発音で応じてくれた。

 いただいた月餅の箱の中から、リチャードは緑色の、俺は濃いピンク色の月餅をとる。袋を開けて、分厚いムーンケーキを真ん中からぐわっと割ると、中のクリームが露出した。カスタードの中に、ルビー色のジャムが見える。二層構造のクリームだ。

 かぶりつくと、イチゴでもブルーベリーでもない甘酸っぱい味がした。ラズベリーか、カシスといったところだろうか。この店でアルバイトをしていると舌が肥える。

「うまいなあ! クリームパンとも生ケーキとも違うし、ちょっとだけ懐かしい感じで、これ新鮮だよ。パッケージもきれいだし、ついつい買いたくなりそうだなあ」

「……その通りです。ついつい買いたくなりますが、月餅はいろいろと難しいお菓子です。何せばら売りをしていません」

「え? そうなのか?」

 頷きながらも、リチャードはどこかひとりごちるような口調で続けた。この男は食べながらは喋らない。小さめの一口で、丹念に咀嚼して呑み込んだ後に口を開く。

 それは贈答用に使うものだからかと、箱入り複数個詰めの月餅を横目に俺が尋ねると、美貌の男は、どちらかというと『お世話になった人と一緒に食べる』という感覚が強いからだと告げた。

 甘いものの好きなおひとりさまには随分厳しい売り方かもしれない。

「……あなたが香港に赴く姿はあまり想像できませんが、仮に『一緒に月餅を食べませんか?』と、この時期ベーカリーの近くで誘われても、ほいほいついっていってはいけませんよ」

「あー、そういうナンパがあるわけだな。このシーズンには」

「ええまあ。いかにもな現地の方には、そういうお声がけはないようですが、外国人があまりにも長い間、月餅を見つめていると……悪目立ちします」

 外国人に見えようが見えまいが、もだもだしているのがこの男だったら、誰でも声をかけたくなってしまいそうなものである。本人の迷惑など考えもせず。そのくらいの魔力の持ち主ではある。大して長い付き合いでもない俺にも、そのくらいはわかる。一番それを知っているのは、リチャード本人だろう。

 お菓子ひとつ食べるにしても、そういうことがあるのは、何だかいたたまれない話だ。

「じゃあ、今度からそういう時には『よく食べる大学生が後から来ますので』って断ればいいよ。電話で呼んでくれたら、俺、そっちに行くからさ」

「……あなたが香港まで? 高田馬場からは随分と長大な道のりですね」

「方便って言うだろ、『連れがいますので』ってさ。でも待ち合わせ場所を教えてくれるなら、ちゃんと行くぞ。一日くらい遅刻するかもしれないけど」

 その一瞬、美貌の男の瞳の奥に、不思議な影がやどった。何だろう。ムーンストーンの青いゆらめきとは違う。こいつの瞳は時々万華鏡のようで、眺める角度によって全く違う輝きを宿しているように見えるのだ。目の錯覚と言われればそこまでの感傷かもしれないが、メラニンの分泌で、『目の色』は本当に『変わる』ともいうし、あながち俺の見間違いではないのかもしれないけれど。

「……あなたの言葉は、時々冗談なのか本気なのか、よくわからなくて困ります」

「あっ、ごめん。全部本気のつもりなんだけどな。俺、自分では考えてるつもりなんだけど、よく考えないでものを言ってることもあるらしいから」

「それを『全部本気』と言うのも、なかなか若者らしいことですね」

 少しだけ棘のある言葉に、それは『なかなかいい気なものですね』という意味かなと俺は思った。調子がいいんだよ、と。

 でも日本から香港なら、確か飛行機で五時間だか六時間だか、そんなに大した距離でもないし、俺は一応パスポートも持っているし、無茶な話でもないとは思う。でも、ううむ、ちょっと遠いだろうか。こういう感覚は難しい。

 とはいえそんなことを問いもできず、俺は苦笑いを返した。ティータイムが終わり、食器を片付け、再びエトランジェの応接間に復帰した後、俺は極力、どうでもいいことを思い出したような口調で声をあげた。

「そういえば」

 ひとつ気になったことが、と俺は尋ねた。

「……差し出たことかもしれないんだけど、さっきムーンストーンのジュエリーをお買い上げになったお客さまって」

「最初に香港でお会いした時、彼女は『彼』でした。ご存じないかもしれませんが、タレント活動も盛んな方です。特に隠してもいません」

「ああ」

 やっぱりか。モデルさんのような長身と、ナチュラルだが隙のない化粧、そして少しだけ太い声。ひょっとしたひょっとするのではと思っていた。やたらと格好いいからだ。別に『かっこいい』イコール『男』なんて簡単に結べるような世の中で暮らしているとは全く思わないが、彼女の美しさはなんというか、エトランジェの中でも外でも、あまりお目にかかったことがないものだった気がする。

 笑顔のまぶしい人だった。

 そして細やかに気遣いをしてくださるお客さまだった。

 完全に俺のフィーリングの話ではあるが、ルビーやトパーズのような、パキッとした色合いの石がはまりそうなああいう人が、ムーンストーンのジュエリーをつけていたら素敵だろうなと俺がいうと、そうですねとリチャードは請け合ってくれた。

 俺があまりにもうまそうに食べたせいか、リチャードはもう一ついかがですとムーンケーキをすすめてくれた。今度は白いものをいただく。うまい。視界の端にはまだ、ムーンストーンのジュエリーが鎮座している。青い光を放つ石と、この月餅とはまるで違うものではあるが、いずれも『月』に属するものだという。

 丸くて甘くて、おいしくて、きれい。

 そういう漠然としたイメージくらいなら、共通点もあるか。

 俺の眼差しは何となく、目の前にいる上司の前で焦点を結んだ。

「…………何か?」

 しぱしぱと瞬きをした男に、特に言うほどのことでもないけれど、今日もお前は変わらずにきれいだと思っていた、まるで月みたいに、と俺は忌譚のない意見を告げた。美貌の男はもう三回ほど、しぱしぱしぱ、とまばたきをした後、ふっと鼻を鳴らした。

「それはどうも」

 俺は無言で頭を下げた。美しさの前に人は謙虚になるという。本当にこれが謙虚な態度かどうか俺には自信がないのだが、ドヤ顔をしている時のリチャードの前で、あれこれ言うことは無粋だ。無意識レベルで口をつぐみたくなる。本人もそれがわかっているようで、お客さまがいるような場所では、滅多にこういう表情はしないのだが、時々俺が珍妙なことをいうと、こういう間が生まれる。恐縮のターンだ。

「……今夜は中秋の名月だそうですが、あなたにとっては一足早いお月見といったところでしょうか」

「え?」

 間髪入れず、何でもありませんと言いながら、美貌の男は再び月餅をかじりはじめた。月といえばウサギがつきものだが、そうして一心不乱に食べていると、何だかウサギがキャベツをかじってるようにも見えるぞという言葉は、俺はきちんと呑み込んだ。これは伝えるべきではない。ひとりで胸の内側にしまっておけばいい言葉だ。ムーンケーキが懐に抱く、甘いクリームのように。

(2018/9/24  blog用 書き下ろし)

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